先日は先生への不信感や絶望感、できないということについてワークしましたが、この日はその続きをやってみました。けれど、胸の奥に残っている違和感にフォーカスしていつものように掘り下げていこうとしたのですが、ありとあらゆることをしても、ガッチリと固まってしまい、どうにも身動きが取れなくなってしまいました。
どれだけ「受け止める」ことをコミットメントしても、カケラ君の中に入って気付きを得ようとしても、また対話しようとしてもダメでした。
気持ちの悪い体感覚を抱えたまま、困ったなぁと途方に暮れていると、ふと「聖者に祈ってみよう」と思いました。帰依しているわけではないのですが、毎晩礼拝している聖者がいるので、その方に助けていただこうと思ったのです。
心の中で呼びかけサポートを願うと、その瞬間から、胸の奥にしまわれていた深い悲しみが溢れてきました。本当に速効で変化が現れたので、自分でもびっくりしました。
何らかの信仰がある方は、ワークの中でこんな風にサポートしていただくと、思わぬ恩寵を受け取るかもしれません。
なぜこんなにも深い悲しみが湧き出てくるのか、ストーリーは相変わらずさっぱりわかりませんでしたが、今まで感じたことのない程、身体の奥深くから、はらわたや胸を引きちぎるかと思うくらいのエネルギーでした。
それはまるで、お腹の中で育ち過ぎた子供を出産するかの如く、私の中では大きすぎて、なかなか出てくることのできない悲しみの様でした。
このときも、大きな感情を受け止めるときによくやる方法で、少しずつ出てきてもらうように感情のカケラ君に呼び掛けるということもしたのですが、それでも思うようにいきませんでした。
けれど不思議だったのは、こんなにも大きなものが引っかかっているというのに、私のハートチャクラ周辺の感覚はこれまでにないくらいす~っと通った感じがしているのです。今までやってきた積み重ねで、大きな悲しみのエネルギーの手前までは、きれいになっているようです。
そんなことにも感心しながら、その奥で引っかかっている悲しみに手こずっていました。
ふと、「私はなぜこれほどの悲しみがなぜ起こったのか、思い出せないのだろう?」と思いました。そしてすぐに、「あぁ、忘れたかったのだ」と思い至りました。あまりに悲し過ぎたので、私が自分で神様にお願いしたのでした。「どうぞこの悲しみを忘れさせてください」と。
そこまで思い出したので、私は自分でかけた封印を解く手がかりを得ました。「神様、もう私はこの悲しみを生きても大丈夫です。どうぞ思い出させてください」と。
しばらくは、ただただ悲しい気持ちだけがじわじわと出てきていましたが、しばらくして、「夫」の感覚が浮上してきました。この感覚、私にとっては思いもかけないもので、頭ではできても、全くイメージすらできない感覚だったのです。
今世では、私は結婚したこともないのでもちろん「夫」と呼べるような人はいませんが、概念としては知っていても、どうやっても私の中には定着しない感覚と言ったらいいでしょうか。
それが突然出てきたので、自分でも驚くとともに、納得するののがありました。
感覚の中で浮上したその「夫」は、とても仲睦まじい夫婦だったようです。ある程度の年月を暮らし、多分50代位で亡くなっています。
これまで私が見てきた恋愛や夫婦の過去世は、あまりハッピーエンドではないものばかりで、結ばれない恋とか、結婚はしても政略結婚で家庭内別居とか、恋愛結婚で結ばれても結婚の数日後に相手が亡くなってしまうとかばかりでした。
なので、「夫婦」という感覚が、私の中にはまるでないのですね。
それも、この仲の良かった「夫」の死への悲しみが、そうした人生を重ねた一つの大きな要因だったのだと思うと、とても腑に落ちるものがありました。
ある程度悲しみを受け止めたところで、まだ残っているというのに解放が滞ってきました。なぜだろうと見てみると、私自身が全ての悲しみを解放してしまうことを拒絶していました。
なぜなら、この悲しみをすべて無くしてしまったら、楽しかった夫との思い出もすべて消えてしまう、自分の中から彼の存材がなくなってしまう、と思っていたようです。
解放のワークではよくあるパターンの一つです。悲しみを通して、大切な人とつながっていたかったのですね。
悲しみを解放しても、大切な人との思い出が消えるわけではなく、ただその関係性が変化するだけです。そこを確認し、そして自分でどうしたいのかを決めれば、解放をその先に進めることができます。
これまでは、「夫」の死自体を受け入れていませんでしたが、今では受け入れている感覚になっています。そして、悲しみは大分落ち着いてきました。すると今度は別の感情が微妙に浮上してきたようです。
置いて行かれてしまった淋しさや心細さなどが、悲しみほど激しいものではありませんが、やっと感じられるようになってきました。
この日はタイムオーバーになってしまったので、感情のカケラ君たちに「また迎えに来るね」と声をかけてワークを終了しました。
先生への不信感や絶望感から入っているのに、全く違ったものが出てきましたが、ワークは「差し出されたものを順番に受け取っていく」のが基本なので、やっていく内にどこかでつながって来るのでしょう。
また、ぼちぼちやっていきます。