昨日は感情解放ワークショップでした。お集まりくださったみなさま、ありがとうございます。初めての方、継続してご参加の方、入り混じってのクラスでしたが、それぞれ、新たな気づきと発見、解放や癒しがあったことと思います。
ワークは深く自分に向き合うものなので、自身の想像を絶する様々な側面を見せられることが常です。その度に、私たちは自身の在り方を問われます。
都合のいい側面だけを愛し誇るけれど、惨めで醜い側面は徹底的に拒絶し抹殺するという在り方は、自分の首を絞めるようなものであり、却って拒絶している側面を繰り返し思い知らされるような出来事を引き寄せてしまいます。
そして何より、拒絶されたあなたの気持ちのカケラはとても淋しく、「見捨てられた」と絶望するでしょう。そのあなたのカケラに対する扱い方が、そっくりそのまま、他者があなたにする扱いになって返ってきます。
つまり、相手にとって都合のいい側面だけ愛してもらえるけれど、相手の気に食わない「私」は、徹底的に拒絶、否定されるという扱いです。
あなたはどこかで誰かから、このような扱いを受けたことが無かったでしょうか。そしてあなたはそのことにとても傷つき、悲しまなかったでしょうか。
その人がやったのと同じことを、あなたは自分に対してしているわけです。深くこのことを受け止め、自身の在り方を転換させていくことができたら、あなたは二度とこうした扱いを受けなくなっていきます。
人を憎んだり、嫉妬する自分、孤独で惨めな自分、怒り狂って何をしでかすか分からない自分、人を平気で騙し、陥れ、自分さえ良ければいいという傲慢で冷酷な自分、ひどく傷つき、絶望の淵で死んだように漂っているだけの自分。
或いは、生きる喜びを全身で表現している自分、深い愛を恐れなく表現し、周囲を慈愛で包み込む自分、勇者のような勇敢さを持った凛々しい自分、優れた能力で皆を導くリーダーの様な自分など。
多分私たちは、無数の人生を繰り返す中で、このどれもを体験しているのだろうと思います。珍しいことでも、特別なことでもなく、今の自分に表立って表れていないだけで、「私」という存在のどこか奥深くに仕舞われている自分が確かに居るのだと思います。
できることなら、後者の部類の自分でありたいと多くの人は願うでしょうが、実は前者を拒絶して後者の自分だけになることは、多分不可能だろうと思います。
後者は、多かれ少なかれ、前者の自分を受け入れ統合できたときに本物となって表れてくる資質です。
もちろん、それが完全にできていなくても、実現できるものもあるでしょうが、前者の受け入れ難い側面を受容するほどに、実は後者の資質は深みと広がりを増し、豊かなものになっていくのです。
自分を愛するのに、右腕は好きだけれど、左腕は嫌い、という愛し方をして、それが本当に愛だと言えるのかどうか。
条件付きの愛を卒業して無条件の愛を体現するのは、相応のプロセスのあることだと私は思っています。
私が尊敬する人の中で、インドの聖者のアンマがいます。ご存知の方もあるでしょうが、アンマは抱擁することで祝福(ダルシャン)を与える聖者です。毎年来日されて、数千人の人たちを休みなく抱擁され続けています。
私は特に帰依者というわけではないのですが、一昨年の来日のときに初めてダルシャンを受けて、そのエネルギーの素晴らしさと、休みなく多くの人を抱擁され続ける明らかに人間離れしたその姿を見て、とても感銘を受けました。
そのアンマの言葉に、こんなものがあります。2015年の元旦のメッセージから引用してみます。
自分の心に力を失わせてはいけません。実のところ、他の様々な決意と全く同じように、幸せでいることも、決意なのです。それは、「行く手に何が起ころうと幸せでいる。勇敢でいる」という硬い決意です。
人は、何が起ころうと幸せで、勇敢でいることができるものだろうか、と最初にこの言葉を聞いたときに、私はとても実現できることとは思えませんでした。だから自分とは無縁なもの、と切り離して見ていました。
今改めてこの言葉に向き合って見ると、いかにしたらこのような在り方が実現できるのだろう?と考えている自分がいました。
家や家族を失い、無一文になっても幸せでいることができるだろうか。自分を殺そうとしてきた千人の兵士たちを前に、勇敢でいることができるだろうか。信じていた人からのひどい裏切りを経験しても、幸せでいられるだろうか、とあらゆる場面を想像してみました。
絶望の淵に居て幸せでいることを決意するには、絶望を抑圧しては無理なような気がします。では一体どうすれば?
今の私のビジョンでは、幸せでいる決意は、深い絶望も否定することなく、あるがままにそれを包み込むことができるというものです。
絶望に飲み込まれることなく、深く受け止めて幸せを決意できた時、絶望はその決意の中で喧嘩することなく共存し、癒されているような気がします。
聖者の決意は私たちの決意のように、容易く挫折してしまうということがありません。それは必ず実現すると言われます。
自分の決意が少しでも聖者のそれに近づくように、日々精進していきたいと思います。