感情解放のワークを継続して続けていらっしゃる方から、先日メールをいただいたのですが、最近は世間一般で言うマイナスの言葉に、だんだん反応しなくなってきたということでした。
これまで、ご自身の中にわだかまってきたたくさんの感情のチャージが解放されこられたので、以前はちょっとしたことでも敏感に心に痛みを感じていたものが、健康な皮膚に触れたときのように、気にならなくなっているのではないでしょうか。
私はよく、感情のチャージを「地雷」に例えてこんなお話をさせていただくことがあります。
感情のチャージがたくさんある人の心は、地雷がたくさん埋まった危険な地雷原のようなものです。一歩進んでは地雷を踏み大爆発を起こし、また一歩進んではまたあちらでも爆発を起こし、という状態です。
けれど、ワークはある種地雷の撤去作業をしているようなものなので、感情解放が進んでいくと、地雷原は安全にお散歩ができる豊かな土地に生まれ変わります。
荒れ果てた地雷原を歩く時の気持ちと、豊かな美しい土地を歩く時の気持ちは、それだけでも随分違うでしょう。
また、こんなたとえもあります。
感情のチャージがたくさんある心は、打撲や擦り傷などでボロボロになった皮膚のようなものです。ちょっとした刺激でも激痛を感じますが、健康な状態の身体であれば、多少はたかれても全然問題はないわけです。
同じ刺激でも人によって感じ方、受け取り方が違うのは、このような内面的な背景が違っているからです。
ただ在るだけでも苦しいと感じる状態の人が、長い人生を歩むのはどれほど辛いものでしょうか。苦しみに引きずられていたら、思考や感情がネガティブに傾くのも無理はないかもしれません。
けれど、だからと言ってネガティブに沈んでいくのが当たり前と決めることはありません。そのとき、自分はどう在りたいのかを、私たちは自分で決めることができます。
それをするのは、今まさにネガティブな感情が浮上してきて、耐え難い感覚に飲み込まれそうになっているそのタイミングです。
普段は意識しないでこのままずるっとネガティブな感情や感覚に飲み込まれて、あれこれ思考を走らせてグルグルとマインドを彷徨っているでしょう。
この状態を変えたいのであれば、このタイミングでぐっと踏みとどまって、マインドに巻き込まれるのではなく、浮上している、あまり心地よくない感情や感覚のエネルギーをしっかりと受け止めていくことです。
どんなことでも、取り組み始めが一番難しく感じるものですが、感情解放ワークにおいてもそれは例外ではありません。一番初めが一番辛く、難しく思えるのです。
ぐっと踏みとどまって感情を受け止めようとしても、人によってはまるで底なし沼に竿を指すように定まらず、足を取られるように感じる方もあるかもしれません。
荒れ狂う感情の嵐の中で踏みとどまるには、意識のポジションをしっかり取ることが大切なのですが、感情や感覚を「対象」として見られているかどうかがポイントになります。つまり、「観察する意識」ですね。
「観察する意識」には、ジャッジメントは一切ありません。つまり、こんな感情や感覚は早くなくなってしまえばいいのに、という思いもありませんし、これはいけない感情であり、こんなものを持っていたら自分はダメになってしまう!という思いも、「観察する意識」に属するものではありません。
こうした思いとそこに貼りついている感情は、すべて取り組みの「対象」として見るべきものになります。
この「観察する意識」(=主体)が、底なし沼のどこかに沈んでいる岩であり、そこに立てるべき竿になるわけです。
ワークの中で、「観察する意識」でいるつもりが微妙に「対象」である感情や感覚と混じり合ってしまうケースもよくあります。特にストーリーが強烈で、そこにどっぷり入っているときは、注意が必要です。
また、ワークでよくあるのが、人間目線の価値観でワークの収束までの流れにレールを敷こうと恣意的な操作をしてしまうケースなのですが、これをしてしまうと、すっきりと解放までは導かれないでしょう。
感情のチャージは、感情のカケラ君たちがして欲しいことをすべて満たしていく中で自然に解放され、癒されて行くものです。癒しは「行うもの」ではなく、それ自ら「起こっていくもの」だということを覚えていてください。
こちらが、「君はこう在るべきだよね。だからこうしてあげるよ」というのではなくて、私たちがどうすればいいのかを教えてくれるのは、カケラ君たちなのです。だからこそ、本当に彼らと対話し、コミュニケーションを取ることが不可欠です。
徹底的に対話する。このことで、自身との深い断絶の溝を埋めていくのです。だから、このプロセスは自身への健全な愛を育むプロセスと言えます。