スピリチュアルの世界でも、「意識の目覚め」「悟り」「解脱」「今ここ」「プレゼンス」などといったキーワードがごく普通に語られるようになって久しいですが、私自身もレナード・ジェイコブソンを人生の師と仰いで意識の目覚めについて取り組んできました。
こうした意識の目覚めに取り組む人たちがどんな動機からそれを求めているかは人それぞれだと思いますが、よく聞かれるのが「もう二度と生まれ変わりたくないから解脱したい」という声です。
そのように言う方は、人生がとても辛く、この世に生きていることがどうにも耐え難いと感じているのでしょう。
私が意識の目覚めを探求するようになったのは、悟りを目指していたからではなく、単により効果のあるヒーリング手法を求めたところが始まりです。それ以前は悟りとか目覚めとか、全く興味はありませんでしたし、そういうものは仏教臭くて哲学的な、自分とは無縁のものだと思っていました。
けれど、当時新しいヒーリングの手法を探求していたヒーラー仲間の一人が意識の探求に注目したところからレナードにたどり着き、みんなでセミナーに参加したのがレナードとの出会いとなりました。
そしてレナードの深いプレゼンスのフィールドに触れたとき、私にはそれが何であったのかは到底理解できませんでしたが、何か間違いなくすごいことが起こっているのだということだけは分かりました。
それから6年。自分なりにどうしたらプレゼンスに根付くことができるのか、もがき苦しみながら探求してきました。
そこから生まれたのが今私がお伝えしている感情解放のワークですが、これらをしながら思うのは、プレゼンスや今この瞬間に居ること、意識の目覚め、悟りは、苦しみからの逃避の手段にはなりえないということです。
これはレナード自身も言っていることですが、探求すればするほど、そのことの意味が良く分かります。
ここから言えるのは、「今の現実、この世界に生きることが苦しいから解脱したい」と思う限りは、悟りや解脱、プレゼンスを体現することはできないだろうということです。
悟りとは「今この瞬間に居ること」であり、これが目覚めた意識の状態です。けれど、今ここに居ることが苦しい人は、そこに居たくはないわけです。一刻もどこか違うところ、もっと楽で心地よいところに行きたいと思っています。そしてそれは、「今ここではないどこか」なのです。
苦しみから逃れる手段として解脱を求める人の、どれだけがこのことに気づいているでしょうか。
では、「今ここに居る苦しみ」にあえぐ人がいかにして、今ここに根付くことができるようになるというのでしょうか。
エネルギー的に、苦しみの感情や感覚は、確かに今この瞬間に根付くことを妨げます。それはたとえるなら、入れ歯と歯茎の間に挟まった異物のような感じで、すっきりと収まるはずのところに痛みと居心地の悪さ、違和感を感じさせます。
レナードが、プレゼンスに根付いていくためのツーステップの中で、取り組むべき項目の一つに抑圧された感情に対処することを挙げているのは、このためでしょう。
そして、私が自身の感情解放に取り組んできたプロセスで感じたのは、これらを通して自分という存在を深く知ると同時に、深まっていく意識レベルに対応できる心身の状態を整えているのだということです。
私の感情解放のワークでは、常に体感覚で体内のエネルギーを意識し続けます。このことで、エネルギーを制御するコツや、実際に大きなエネルギーに耐えるだけの意識と体の状態を少しずつトレーニングしている側面があります。
そのプロセスで、大なり小なりの変容を繰り返していく結果、苦しみの中でもある程度今ここに意識を置いていられるようになっていきます。
また、見たくない自身の側面や受け入れ難いものと対話し、受容・統合していく道のりは、ツーステップの別の項目、エゴとの適切な関係を構築すること、すなわちマスターレッスンにも通じていると私は理解しています。
私はレナードから教えてもらったプレゼンスを実現するために、一瞬も今ここに居られない意識からどうしたらそこに至れるのか、彼の教えからのヒントをもとに探求してきましたが、これらのプロセスをすっ飛ばしてそれが実現できるとは、未熟な私には到底思えませんでした。
最も見たくないものに目を向け、受け入れ難いものを受容する方法を学び、実践することで、確実に今ここに居られるようになっていきますし、現実もどんどん優しいものになっていきます。
レナードは、「私にとって今ここは天国だ」と言います。それが目覚めた意識に在る人の世界なのです。
一方で私たちは、彼と同じ空間、同じ時間に居るようでありながら、どうしてこんなにも世界の感じ方が違うのでしょうか。
言い方を変えれば、なぜ私たちはここまで自身の生きる世界を苦しみで一杯にしているのでしょうか。それは間違いなく自分でそのようにしています。
その在り方を変えていく中で起こって来るのが解放であり癒し、変容です。自分で自分の在り方の責任を取っていく学びを瞬間瞬間、重ねていった先にあるのが、意識の目覚めなのだと私は理解しています。
であるならば、自身の在り方の責任を取らないために起こっている苦しみから逃れたくて解脱を求めるのは、永遠に実現不可能な命題だと私は思うのです。