以前から気になっていた映画「沈黙」に、やっと行ってきました。ここのところ忙しくて時間が無かったのと、何となく色々なものがトリガーされそうで勇気が要ったのとで、ずるずると遅くなってこのタイミングとなりました。
けれど勇気を出して観てみれば、思いの外気持がかき乱されることもなく、割と冷静に見られた自分が不思議でもありました。感情のチャージの解放が大分進んだとみるべきか、抑圧が強くてガッチリと感じないようにしているものがあるとみるべきか、自分でも図りかねるところではあります。
ここまでこの映画に対して私が構えているのは、以前、「神への不信」というテーマが浮上していた時に、まさに磔になって神を恨みながら死んでいった過去世のビジョンを見たからでした。
それを見たときに、天から白い光が降りて来て、その恨みが本当に不思議なくらいにす~っと晴れて楽になったので、きっとそのときに癒えていたのでしょう。
映画の中で信者たちが拷問されて死んでいくシーンを見ても、胸の奥に微かな痛みは感じたものの、想像していたほど反応はせずに見られていました。
今回私の意識が向いたのは、そうした残虐なシーンよりも、裏切りと罪悪感のテーマでした。
窪塚洋介演じるキチジローは、何度も「転ぶ」、つまり踏み絵を踏んで切支丹であることを否定し、神父を売ったり、仲間を裏切ったりする役どころです。(内容にちょっと触れるので、知りたくない!という方はこの先は読まないでください)
転ぶたびに彼は告解をするわけですが、深い罪悪感が完全に拭われることは無いのでしょう。自尊心を持てずに心も容姿も、どんどん卑屈さ、醜さを増していきます。
この人間の弱さの象徴とも言うべきキチジローと、何度も彼の告解を聞くロドリゴ神父との関係性が、とても興味深く見えました。
最初は人間の弱さを突き付けてくるキチジローに苦悩したロドリゴ神父ですが、神父自身が信者たちの壮絶な拷問に耐えきれずに転んだとき、キチジローの存在は彼にとって別のものに変容するのです。
私たちの多くは、キチジローに象徴される人間の弱さ、醜さをひどく軽蔑し、時に激しくそれを迫害します。
多分、キチジローは誰よりも自身のそうした部分を嫌い、どうにかして善良で、勇気ある人間になろうと努力したことでしょう。
けれど、「拒絶したものは受容されるまで何度でも差し戻される」という法則がありますから、彼が自身の弱さを拒絶すればするほど、強烈に「弱い自分」が突き付けられてきます。
だから彼は何度も大切な人たちを裏切り、深い罪悪感に苛まれたのです。それは、「そうならないようにしよう」と努力しても無駄なことです。法則はそれ以上の圧倒的な力によって、拒絶したものを差し戻してきます。
キチジローはこうした法則など知りもしなかったでしょう。一生懸命努力しようとしているのに、結局自分はそれができないと、自分自身に絶望したかもしれません。どうして自分はこんなにも惨めで卑しいのかと、深く悲しんだだろうと思います。
感情解放ワークのセオリーで行けば、まず彼は自身のしたことによって生じた心の痛みの責任を取る必要がありました。つまり、自分を責め、事実から逃げるのではなく、自身の内で起こっている動揺やショック、悲しみなどの感情を、自分の身体とともに受け止めることです。
加害者としての痛みを受け止めた後、初めて自分が迷惑をかけた人たちを直視することができるようになります。そして、彼らの痛みを受け止められるのです。
それができたら、やっと本当の謝罪ができるでしょう。このようにして、罪悪感という病魔に自身の心を蝕ませず、安らぎと自尊心を取り戻すことができます。
ロドリゴ神父も、最初はキチジローの弱さに苛立ちや嫌悪感を抱いていたかもしれません。これは、自分の中に彼のような弱さがあることに気づかず、それを彼に投影して反応していたと見ることができます。
けれど、神父が転んだ後、自分の中にもキチジローと同じものが間違いなくあったことを否定できなかったでしょう。そのとき、相手を軽蔑する上から目線ではなく、対等の目線で彼を見ただろうと思うのです。
ここに、同じ傷を持つ者同士が傷をなめ合うという以上の関係性の変容があったのではないかと、私には見えました。
なぜ人はこんなにも弱くなり得るのでしょうか。自分が助かりたいが故に仲間を裏切ったり騙したり、陥れたり濡れ衣を着せたり、そして罪を逃れたくて逃避する。こうした醜さはつまるところ、自身の内に生じる恐れの感情を受け止められないが故に起こっているような気がします。
あまりにも恐すぎて、まず意識が自分から抜けてしまいます。すると今この瞬間の状況を乗り切るためのパワーともつながれなくなってしまい、自分自身にも責任が取れなくなってしまうのです。
死ぬのが恐い、何かを失うのが恐い、辛い目に遭うのが恐い、絶望を味わうのが恐いなどなど。
最も避けたいものを避けるために、最も醜い行為をし、それによって皮肉にも、最も避けたかったものに苛まれるのです。
この映画を見て、そんなことを思いました。