同情と共感

感情解放ワークを実践されている方の中で、「同情」と「共感」を混同されている方が結構いらっしゃるのだな、と思うことがあったので、今日はこれらの違いとワークの感情に対するスタンスについて今一度、確認しておきたいと思います。

ワークにおいては、自身の感情に対して「共感し寄り添う」ことが解放の基本になっています。けれどたまに、辛かった自分の気持ちに「辛かったよね。ひどいよね」とどっぷり「浸って」いる方があります。

これは「共感」ではなく「同情」のスタンスであり、ワークではやりませんし、これをやっていても、自己憐憫の被害者意識が強くなるばかりで、解放には至らないでしょう。なぜ解放されないのか、後で説明します。

まずこのスタンスのどこが間違いなのかを、一つずつ見ていきましょう。

ワークでは、湧き上がる感情のエネルギーをまず自分の身体のどこにあるのかを確認します。そして、それに呼吸で命のエネルギーを送ったり、対話したりして統合していくわけですが、どの段階においても、自分の体感覚から離れないようにして進めていきます。

自分の内側にある感情のエネルギーを「対象」として見て、それを受け止める「主体」としてワークを進めますが、常に自分の中で起こっていることの「当事者」としての意識のポジションを維持します。

「共感」とは、書いて字のごとく、「共に感じる」ことです。つまり、自分の内側で分離している感情のエネルギーを、まさに感じることがベースになります。そして「寄り添う」というのは、その苦しみを感じているまさにその場に、共に在るということです。

一方の「同情」は、実はこれらが無くてもできてしまうのです。「共に感じて」いなくても、口先だけで「辛かったのよね」と言うことはできますし、辛い思いをしているところに居なくても、自分は安全な場所に居て遠くから「大変だったのね」ということもできるわけです。

「でも、感じているし、側にいるけれど」という方もあるかもしれません。ワークにおいては以上の他に、もう一つ大切なポイントがあるのです。それが、「感情やストーリーに巻き込まれていないポジションでそれを行う」ということです。

上記の「ひどいよね」という言葉は、完全にジャッジメントの言葉であり、ストーリーに巻き込まれています。この言葉が出てくるということは、その人が感情を受け止める「主体」としての意識のポジションを維持しておらず、感情のエネルギーに一緒くたに飲み込まれているということを意味しています。

これでは、本当の意味で「側に居る」とは言えません。

こうなってしまうと、「被害者」と「加害者」という二元性の「被害者」の極に引っ張られてしまい、いつまでも恨みがましい気持ちから解放されないのです。

大抵のわだかまりを抱える出来事には、「被害者」と「加害者」が存在します。自分にとって相手は加害者かもしれませんが、相手にとってはあなたが加害者だったりするわけです。

互いに譲らない被害者意識の中で、絶対に交わることのない平行線をたどっていてこじれにこじれているわけですが、こうした絡み合った感情の糸を解くには、やり方があります。

まず自身の「被害者としての痛み」を受け止めます。次に、相手の意識の中に移動して、相手がなぜそのような行為をして来たのか、その動機となる核心の感情を掘り下げ、これを受け止めていきます。

これができたら、改めて相手の視点から自分を見てみます。双方の感情のチャージを受け止めた後に向き合って見ると、最初とは随分感じ方が違っていると思います。そこで、謝罪が必要ならそれを伝え、自分の意識に戻ってその謝罪が素直に受け取れるかどうかを確かめます。

受け取れれば和解成立で、相手を見てももう何のわだかまりもないでしょう。受け取れないのなら、まだあなた自身の被害者の痛みか、相手の方の痛みのどちらかが受け止め切れていないことを意味しているので、さらに同じ手順をもう一度やってみます。

いずれにせよ、最終的にはこの方法で恨みや憎しみなどを解いていくことができます。

被害者としての極に引っ張られていたものが、相手の中に入って加害者としての側面も受け止めたので、中庸に戻ったわけです。このポジションがいわゆる「ゼロポイント」であり、二元性を超えたポジションなのです。癒しは、このポジションで起こります。

よく、自分の感情を受け止めるのだ、と言って、どっぷりそこに浸って泣いたり怒ったりするやり方をする方もあるようですが、いくらそれをやっても一時的で楽になっていかないのは、一方の極だけを表現して終わっているからだろうと思います。

二元性を超えていくためには、他人事のようにしてそれを見るのではなく、加害者にせよ被害者のポジションにせよ、常に「当事者」のポジションで感じ、体験することがベースになります。

翻って、「同情」はどちらかというと、「可愛そうな他人」に、上から目線で「そうではない自分」が情けをかけてあげるというような分離の意識がどこかにあるような気がします。

「共感」には、その分離はありません。常に当事者であり、共に感じ、共に在るのです。

ここは本当に大切なポイントなので、しっかりと押さえておいてください。

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