これまで私は、内面に意識を向けることは随分やってきたと自分では思っているのですが、最近その意識の「向け方」がまだまだ雑だというとことに気づいたので、注意深く取り組んでみることにしました。すると、これまでどうしても流れなかった様々なことが一気に流れ始めて、驚くと同時に、何かが掴めてきたような気がしています。
少し前になりますが、長く持っている「神への不信」というテーマに取り組んで、これがある程度解放が進んだとき、どうしても斜に構えて真っ直ぐに向き合えなかった「神」や自分自身に正面から対峙することが、以前よりできるようになった感覚がありました。
具体的には、ジャパ(マントラを繰り返し唱える修法)のとき、私はただマントラを口先だけで唱えていてその対象である「神」にはちっとも意識を向けていませんでした。
時々シヴァ神などをビジュアライズしてそのエネルギーに触れることもあったのですが、大抵はそっぽを向いたまま、形だけ唱えていたわけです。これではマントラの御利益もあまりないのも頷けます。
ところが、この解放が起こった後、私は真っ直ぐにそれらに向き合うことが楽になり、以前よりずっと神々を見ている時間が増えました。
それと同時に、自分自身に対しても神々に対するのと同じように、斜に構えて視線を微妙にずらしていたことに気づき、これが軌道修正されました。
どこに行くのでもない。せめて今この瞬間だけは、自分とともに居よう。そう思って、じっと自分自身の意識を見ていました。すると、自身の内から美しい光とパワーが真っ直ぐにやって来るのが分かりました。
これまでも、自身の内に光は見えていたのですが、今度はもっとダイレクトに鮮烈なエネルギーが来る感じでした。
これができるようになってから、不思議と現実の流れも大きく変わってきています。ここ数年もがいていたことは、今では全く危なげなくクリアできていますし、それに伴って湧き起こっていた心配や無力感なども大分なくなっています。
これが一時的なものではない感覚がどこかにあり、ものごとはここを押さえればいいのだという、コツをつかんだ気がします。本当のパワーは、自身の内側からやって来るというのをこれまで以上に深く実感しています。
誰しもこの人生を生きていれば、傷ついたり傷つけたりということを無数に重ねてきていることでしょう。そしてうまくそれを消化できずに、長いこと心の奥底に蓋をして抱え込んでいるものがあります。
それに触れることは絶対に嫌で、切り離してもう二度と思い出さないように、と固く封印している方も少なくありません。そして、そんな自分が癒えていくことなどあり得ない!と諦めているのです。
中には、「墓場まで持って行く」と思っている方もあるのですが、それらは墓場で終わるわけではありません。苦しみの種は魂に吸い込まれ、次の人生まで持って行くことになります。そして、次の人生ではもっと過酷な形でこのテーマが差し出されるでしょう。
ですから生きている今、自身が癒えていくことをどうぞ諦めないでいてください。
今苦しいのは、自分が受け止めなければならないものから逃げているからです。癒えていくには、どのような形であれ、それに向き合うことが必須です。
最初は、自分が逃げていることすら気づかないかもしれません。そして、逃げているものが何か分からないこともあります。それでも、苦しいところ、人生における機能不全のところを注意深く探って行けば、必ず不自然に蓋をされた形跡を見つけるでしょう。それが心の封印です。
逃げ続けていても、逃げ切り完了はありません。必ずそのことはどこかで差し戻されてきます。そしてそれは、自身の最も深い望みに影響を与えるのです。
逃げたまま、最も深い望みを達成することはできません。常にどこかで満足できないものを感じ続け、「これではない何か」を探して彷徨うことになるでしょう。
なぜなら、最も深い望みは、自身の深奥に存在し、それを達成するパワーはそこからやって来るからです。つまり、最も逃げていたいものこそが、真の望みを達成するためのパワーの源なのです。
あなたはこの事実を、いつ受け入れるでしょうか。
いや、これには触れないで何か他に方法はあるはずだ。そう考える人は、他のあらゆる方法を実践して挫折を繰り返し、自ら逃げ道をつぶしていきます。そうしてからやっと「やっぱりここをやらなくちゃダメなんだ」と観念するのです。
なぜ受け止めないとダメなのかというと、人生のあらゆる分野でホログラフィックに現れているその在り方が、受け止めることによって変容するからです。この「在り方の変容」は、直面し、受容することによって起こります。
逃げていない自分、どんなことも気負わず自然体で受け止め、誠実に応答している。そんな自分って、素敵じゃないですか?その自分は、あなたの在り方が変容した先に、確かに存在しているのです。
自身のこの可能性を、実現していきたくないでしょうか。諦めて拗ねたまま生きていきますか?
選択は、誰のせいでもない、常に自分自身が決めているのです。