感情解放のワークで傷ついた気持ちを深く掘り下げていくと、大抵、無力感や無価値感に行き着きます。余りにもその出現頻度が高いので、いかにこれらが私たちの行動に影響を及ぼしているかを思うと、もはや社会基盤の一部になっている感すらあります。
一見、華やかで自信に溢れているように見える人の心の奥にも、これらの無価値感や無力感が見られることは少なくありません。
常に人の注目が自分に集まっていないと気が済まない人、自慢話が多くて称賛されたがっている人、美貌や有能さ、特有の個性などで認められることに情熱を注ぐ人、人からうらやましがられることで優越感を抱くことに、この上ない喜びを感じる人などなど。
そのような側面自体が良いとか悪いとかではないのですが、それらの言動の出発点が無力感・無価値感であったとすると、一時人々の称賛や承認、優越感を得られたとしても、それらが得られなくなった途端に、そのことによって紛らわせていた無力感・無価値感が浮上してきてしまします。
傍から見ると、こんなにも美しく、誰もが憧れるほど有能で素敵な人なのに、その人の心の中は結局、無力感・無価値感で一杯なのです。
これらの感情は、しばしば正反対の表れ方をすることもあります。つまり、いつも自分の自信が無く、卑屈になってしまって、自分に価値があるなんてとても思えない。こんな自分が注目されるのは恥ずかしい、できるだけ目立たないようにしていよう、どうせ自分はできないんだから。などといった考え方や行動様式を持つ人もありますね。
これらの二パターンを比べてみるとまるで正反対で、一見、共通するところはないようにも見えます。けれど、両者の根に在るものが、全く同じであるということがあるのです。
人生の中では、同じものを持ったもの同士が引き合うという波動の法則があるので、これらのベースの上に、たとえば優越感を抱く人と劣等感を抱く人が引き合ったり、自慢をしたい人と自慢話を聞かされる人が引き合ったりするのです。
さらに興味深いのは、自分が劣等感を抱いたりしたとき、よく相手をけなして落とすことで溜飲を下げる人がいますが、実はこれは、そのけなした相手と全く同じ行動パターンであることが読み解けます。
つまり、相手の態度によってかき乱された自分の落ち着かない気持ちを収めるために、相手を落として、自分を上げることで心のバランスを取ろうとしているのです。これはすなわち、優越感によって心の平静を保とうとしている相手と、全く同じことをしていると言えるでしょう。
だからこそ、あなた自身がやっていることはこういうことだよ、と気づかせるために、その相手を引き寄せているわけです。
「いくらなんでも、あの人のようなことを私はしません」とあなたは言うかもしれません。けれど、表現方法は違い、用心深くその要素を隠したとしても、相手と同じようなことをしてしまう要素は、厳然としてあなたの中に存在しています。
あなたの魂は、表面に表れている形について問うているわけではないのです。隠れているあらゆる要素について、気づき、方向転換するようにと促しているのです。
だから、見えていないのだからいいだろうという考え方をしていると、魂が差し出しているものが理解できないでしょう。
このレベルの学びについて、すぐに理解できて響く方と、まったくピンと来なくて理解できない方と大きく分かれるのですが、こうした話を聞くこと自体、そろそろ学ぶタイミングに来ているというお知らせでもあるので、注意深く、できるだけニュートラルなスタンスで耳を傾けてごらんになるといいと思います。
自分の心をここまで乱すあのとんでもない相手と同じものが自分の中にもある、と言われた時、あなたはどんな気持ちになるでしょうか。
「ありえない!」と激しく反発するのなら、あなたは間違いなく「反応する要素」を持っていますが、そのことを自身は認めず、拒絶しているので、そこに触れられたときに心穏やかではいられないのです。
もしないのだとしたら、「そんなこともあるかもしれないな」と、もっとニュートラルかつ落ち着いた気持ちでそれについて、「ある可能性」と「無い可能性」を同等に振り返ることができるでしょう。
また、それがあることを認め受け入れているのなら、「そういう要素を確かに持っている」と、拒絶しているときよりも冷静に受け止められるでしょうが、まだ解放はされていないので、それに対して警戒心を抱きつつ、日々用心深くそれが暴発しないように過ごしているかもしれません。
いずれにせよ、無力感や無価値感を抱き、優越感と劣等感の間で右往左往しているのは、私たち本来の健全な在り方ではないだろうと思います。そのような状態になっている根本的な原因は、私たちが自身の力の源泉から切り離されてしまっているところにあります。
自分本来の健全なパワーの泉が、私たちの存在の深奥にはあるのですが、自分が自身から離れてしまっているので、そこにつながれずにいるのです。
だからこそ、私たちは何としても、自分自身に帰らなければならないのです。