感情解放のワークをされている方の中で、どうしても自分の感情に触れられない、自分の感情が分からないという方を時折見かけます。どんなに丁寧に誘導して行っても、辛い感情の核心に近づくとつるっと逃げてしまって、「分からない」となってしまうケースです。こういう方は、自分で自覚している以上に深く傷ついているんですね。
余りにも深く傷ついてしまっているので、非常に注意深くその傷に触れることが無いように、鉄壁の防御とも言える心の防御機構を築いて自分を守っています。それを外すことは、その方にとってはものすごく大きな冒険であり、勇気の要ることなのだと思います。
どこかでそれを外していかなければならないことは頭では分かっていても、あまりに恐すぎて、自分でも身動きが取れなくなっているのでしょう。
そんな状態から脱出していくには、人それぞれに道筋はあるのだと思いますが、恩寵の力も大きいと思います。何か特定の信仰をお持ちの方は、その信仰対象の存在に、自分に向き合っていくプロセスをともに歩んでくれるようにお願いをしてみるというのも、大きな力をもらえます。
そうした存在は、自分が一番辛いとき、必ず側にいてくれるからです。
自分に向き合うことは、とても孤独な作業でひどく辛いことも多いですが、そうした歩みの中でこそ、そのような存在を最も身近に感じ、絆が深まっていくものです。
私自身、ここまでくる間に特定の信仰というものは持っていませんでした。けれど、最も辛かった時期にインドの聖者の本に出合って、読み進めながら自身のワークをしていく中で、恩寵が常に自分とともに在ることを、肌で感じていました。
今ではインドの神様を礼拝したりしていますが、だからと言って自分が信仰を持っているとは思っていません。ただサーダナ(霊性修行)の一環としてジャパ(マントラを繰り返し唱える修法)をしているだけで、バクティ(神に対する敬愛)という意識は、実のところあまりないのです。
それでも、信仰とは別の次元で恩寵を感じることがしばしばあります。何かを信じ込もうとすることによってそれがやってくるというのではなく、それはただ起こるのです。何か、とても有り難いものに生かされている。守られているという圧倒的な感覚です。
恐れの深いところに向かっていこうとするとき、こうした感覚はとても大きな励ましと勇気をもたらします。
実のところ、私たち個人の勇気や意思など、本当に微々たるものです。けれど、そうし微々たる勇気を振り絞って何かを為そうとしたとき、そこにはるかに大きな恩寵が流れ込むのです。
セッションなどでも、たまにそうした大きな恩寵が流れ込む瞬間というのを感じることがあります。そういうとき、本当に私はヒーラーとしての自分の実力以上のことが起こっているということをひしひしと実感するのです。
人はこの恩寵を感じたとき、飛躍的に霊的な成長を遂げます。個としての自分をはるかに超えた力によって導かれ、生かされ、また大きな世界の一部としてともに流れている自分を一点の疑いもなく理解するのです。
そのことによって、頑なだった心が弛み、少しずつ、深いところで何かが育っていくのを感じるかもしれません。それは一瞬で起こるというよりは、少しずつ、段階的に進んでいくことが多いように思います。
そのような歩みの中でしばしばみられるケースに、かつて恩寵に深く触れた経験があるにもかかわらず、何らかの原因でそれに背を向けた体験の記憶が浮上して来るというものがあります。
そのようなケースでは、ほとんどの方が信仰やスピリチュアルな体験というものに対して、多かれ少なかれ抵抗があって、避けてきている部分を持っています。
人それぞれに、今生であったり過去世の場合もありますが、信仰やスピリチュアルな経験の中で、手痛い思いをしているのですね。だからこれまでそれには触れないようにして生きてきた、というわけです。
けれど私たちの存在自体、スピリチュアルなものですし、そのような側面を外して自分というものの本質を知ることもできなければ、人生を真に生きることもできないでしょう。だから、人生は私たちに、ピッタリと閉ざして背を向けたそれらに対して、再び開くようにと促すのです。
「避けている」というのは、ニュートラルなスタンスで特にそれに入り込んでいないという状態とは明らかに違います。私たちのとても自然で、神聖な側面にわだかまりなく相対することができた方が、自分を制限することもなく自由でいられます。
もし自分の中にそうした自覚があるのなら、意識を向けて向き合てみると、人生は大きく変わっていくと思います。
大いなるものへの不信は、想像以上に私たちの可能性を制限することにつながっており、これがある故にやりたいと思っていることに対して、無意識にもブレーキをかけてしまっているケースも多くあります。
まさに、恩寵を受け取りたいのに深いところで拒絶しているわけですが、まずは拒絶している自分に気づくところから始めてみましょう。
恩寵は、あなたに受け取られることを今この瞬間も待っています。