感情解放のワークでは、出来事によって差し出されたメッセージに気づき、応答するということがとても大切な解放の要素になっています。そのときに「鏡の法則」が出てくるのですが、いかに「鏡」を使って、はっきりと自分自身の姿を見られるかが、解放の深さを左右します。ただ何となく「そうだよね」と思うレベルではない気づきが必要なのです。
「鏡の法則」を知っている、聞いたことがあるという方は結構いらっしゃいますが、実際にそれを使って深い気づきと解放に至っている人は、そう多くはないだろうと思います。
ワークでは、徹底的にこれを使いたおすくらいに深く深くこの「鏡」を見つめていきます。
「鏡」の中の相手を見ていくことで、今の自分がどんな姿をしているのかということだけでなく、自身の課題にどれだけ気づいているのかいないのか、それに対してどんなスタンスでいるのか、課題を超えて行ける可能性はどれだけあるのか、またどうやったらそれを超えていけるのか、というところまで知ることができます。
深い解放に至る気づきというのは、「はっきりと自分の姿を見ること」に尽きます。「そうなんだよね」と解釈するとか、ぼんやりと思うとかいうレベルでは、決して解放には至りません。いつまでも頭で考えてぐるぐるしながら、腑に落ちないものを抱えて同じことを繰り返すでしょう。
相手がするように、まさに自分が同じ気持ち、同じ動機で全く同じ行動をしている様を見るとき、私たちは少なからぬ衝撃を受けます。その衝撃を避けてはならないのです。
けれど、しばしば私たちはそれが嫌で身をよじるようにして逃げます。そうすることによって、求めているはずの解放のプロセスから外れていることにも気づかぬままに。
見たくもない、気づきたくもなかった自分の狡さ、醜さを直視するというのは、不快であり苦しかったりするでしょう。それまで築き上げてきたと思っていた自己イメージが崩壊するほどの衝撃もあるかもしれません。
けれど、先に進みたいのなら、そのようにして守ってきた自己イメージを崩壊させなければならないときもあります。まさにそれが故に停滞しているわけで、それを守ることにしがみついている限り、苦しさは極限まで増大していくことを止める術はありません。
このように、私たちはしばしば自らを停滞させ、苦しみの種となっているものを必死で守ろうとしているというのは、何とも皮肉なものですね。
破壊と創造は常にセットですが、破壊というプロセスの前に立った時、その恐怖を超えていくには、破壊という側面だけを見ていては不可能です。その状態では、恐怖に飲み込まれて、その先にある創造の可能性を見ることはできないでしょう。
そんなときは、「その破壊と創造がもたらそうとしているもの」に意識を向けてみることです。ただその一点をのみ見つめて歩みを進めていく時、破壊と創造はプラスとマイナスのエネルギーなのではなく、プラスもマイナスもない、莫大なエネルギーをもった神聖なる宇宙の意図と一体になることができます。
そこには、恐怖におののいてプロセスから逃げる自分は存在しません。自分はただ、プロセスが起こる神聖なフィールドそのものになっているのです。
プラスとマイナス、主体と対象の二元性は、このようにして超えていきます。
ワークががっちりとはまってしまって一歩も進まないというときは、常に被害者・加害者、アイツと私、恐ろしい痛みの感情とそれを受け止めなければならい自分といった二元性の極の片方に意識が閉じ込められています。
ワークでは、この二元性の間を行ったり来たりしながら、相手の中に自分を見、自分の中に相手を見ることで強固に閉ざされた自他の枠の幻想を弛めていきます。
そうして弛んだ二元性の枠の隙間から、「一なるもの」の恩寵が流れ込むのです。これが神聖なる気づきであり、あらゆる硬直した状況を調和に導く「癒しの手」です。
自分が被害者だと思っている人は、加害者の側面を体験し、見ることによってこの二元性の檻から解き放たれます。同様に、加害者の人は、被害者の側面を生きることによって、解放に至ります。
従って、どちらかの側面を否定したときに、私たちは必然的にそこに囚われてしまうのです。
囚われてしまった私たちの意識を再びワンネスに導くために、宇宙は私たちに囚われている反対の極を体験させます。自分の立場のあらゆる側面を受け入れ、それから相手の側面を完全に受け止めたとき、初めて私たちは現実の半面ではなく、完全な世界を体験するのです。
拒絶しているものを見ること、認めること、受け入れることが計り知れない癒しと調和をもたらすのはこれ故であり、そこから逃げていては、喉から手が出るほど欲している安らぎや調和、安堵の感覚がやってくることがないということが、おわかりいただけるでしょうか。
癒しや自分と向き合うことは、自分の都合のいい側面だけになることではありません。このことをよく心に留めておいてください。