先日は、ガネーシャ・ギリ先生のところの今年最後のヨガに行ってきました。クラスを受けるたびに毎回色々と発見があって、クラスのみなさんと楽しく受けさせていただいています。今回も色々と気づくことがあったので、私自身の覚書きとして書き留めておこうと思います。あくまで私の雑感であることを念押ししておきます。
ハタ・ヨガにせよクンダリニー・ヨガにせよ身体を動かす時、日頃からの習慣で私はいつも「自分の中で起こっていること」、特にエネルギーと意識状態を中心に見ていることが多いです。
先生のところのヨガは意識を繊細に使うことを求められるのですが、注意深く意識を使いながら体を動かす時、意識の使い方次第で、自分が様々な別の次元に居るように感じることがよくあります。
たとえば、両腕を水平に伸ばしてそれを上まで持って行くという動きがあったとします。この動きを、ただ「肉体の腕の水平から上までの移動」として動作することもできますが、今この瞬間に意識を置いて、ゆっくり上まで上げていくと、この肉体が、その動きとともに宇宙と共振しているのが感じられるのです。
そのとき、腕の動きは宇宙の天体を運行させる力そのものであったり、日の出とともに太陽の光があまねく地上に広がっていく様であったりして、そうなると腕が真っ直ぐに上に延ばされた時には、天から地上に突き抜けるエネルギーのラインそのものになります。
その感覚がとても気持ち良くて、ヨガのこうしたポーズを考えた人たちは、ただ体のストレッチとしてこれを作ったわけではなくて、きっと肉体の枠を超えて人間という存在を宇宙と調和させる手法としてこれを作ったのだろうと思うのです。
そのようにしてヨガをしているとき、個我の自分という意識の枠が弛んで、宇宙の果てまで意識が広がっていきます。
とは言え、まだまだ意識は荒くムラがあるので、均一なスクリーンのような意識でそれを体験しているわけではないのですが、個我が「自分」と認識している肉体の内側、このアイデンティティーの上に起こっている心の動きだけが自分の範疇ではなくて、「この意識で体験しているすべて」が一続きの「自分」になっています。
つまり、この状態で観察している「自分」というのは、「宇宙に広がった意識で体験しているすべて」になります。
様々な文脈の中で「自分」というものが語られるとき、しばしば思うのが、「自分というものの定義をどう取るかによって、意味合いや質問への答えが違う」ということです。
クライアントさんからの質問でも、たまにですが、その定義の問題でひっかかって、どう答えたものかと思案することがあります。そんなとき、意識のポジションの取り方が違うのだと気づいて、その部分について誘導することもあります。どのポジションからそれを見るかによって、そうした質問自体が出てこないということがあるからです。
感情解放のワークをしていると、イメージワークの中で相手を呼んで来て相手の意識の中に入り、その人の感情を感じたり意図を汲み取ったりということをよくします。
「自分」と「相手」の意識を行ったり来たりしながら、わだかまった感情のエネルギーを解いていくということをやっていく中で、「相手」と思っていたものは紛れもなく自分だったという、否定のしようもない気付きを得ると、だんだんと個我の強固な「自分」というものの枠組みが弛んでくるのです。
こうして現実は、一続きの意識の上に映し出された、境目のない一枚の絵になります。内もなく外もない、この意識のポジションにいるとき、私たちは「宇宙から見捨てられた異質な孤児」ではなくなるのです。
何年か前のサロンの瞑想会では、意識を広げてみたときに、この現実の感じ方がどう変わるか、というのを体験する誘導をしていた時もありました。特定の場面を、自分の立場から見たとき、相手と自分両方を感じて体験してみたとき、その状況の全体に意識を広げてみたときで、感じ方が全く違うのです。
一般に、意識を大きく広げて場面を捉えた方が、緊張や不安は少なくなり、個我の自分が全体によって支えられている安心感を感じるようになります。そういう意味で、「意識のストレッチ」は、心が固くなってとらわれやすく、不安感が大きい人にはいいのではないかと思います。
意識の持ち方、などとよく言われますが、人間というのはこの意識によって、無限大の宇宙にもなれれば極微小の粒子にもなれるという、実に不思議な存在なのだなと思います。
決まりきった日常というルーティンでも、どのレベルに意識を合わせるかで全く違った世界を体験します。
目覚めたマスターであるレナード・ジェイコブソンは、プレゼンスにも深さのレベルがあって、深いレベルのプレゼンスに居ることが重要だと言います。彼は、自在にその深さのレベルを調整しているそうなのですが、私たちがプレゼンスに入っていく時、「人生の違うレベルを体験しているのだ」と言っています。
やっと最近、その「人生の違うレベル」というのを感じられるようになってきたのかな、と思いました。