14日は満月の瞑想会でした。お集まりくださったみなさま、ありがとうございました。この日は今年の学びを総括し、2017年に向けた指針を得ていく流れとなりました。自分自身の根源にしっかりつながり、軸となるポジションをそれぞれに確認されていた様子でしたが、お帰りの際の笑顔で、きっと良い年をお迎えになるだろうと感じられました。
私たちは、この世界に様々な体験をしたくてやってきたのだと思います。けれど、実際にこの世界で様々な体験をして行く中で傷つき、痛みに震え、絶望したり怯え、いじけたりして、いつしか、この世界にやってくるときに抱いていた気持ちを忘れてしまうのでしょう。
けれど、人生とは不思議なもので、「君はこんなにもやりたいことがあったんだよ。そろそろ思い出してごらん」という呼びかけをどこからか受け取ることがあります。
そんな囁きに、「あぁそうだった!これだったよね!」と長いこと忘れていたワクワクや喜びが復活することもあれば、「そんなこと言ったって、何にも思い出せないよ。そもそも、この世界でやりたいことなんて私にあったのかしら?」と、途方に暮れることもあるでしょう。
暗闇の中、気も狂わんばかりになって道を探し、助けを求めているのに、ちっとも答えてもらえない。そんな風に感じている方もあると思います。それでも、あなたの歩みは必ず見守られています。
ではなぜ、見守られているのに「助けてもらえない」のでしょうか。
私自身と、様々な方を拝見していて私が感じるのは、高次のサポートは、その人の設定している学びに介入するようなことはしない、ということです。
本人がその状況の中で気づき、方向転換するまでは、その人がどんなに苦しんでいようとも、表面的な苦しみの緩和のための助けというのはないのだろうな、と感じるのです。
実際に、たとえそうした助けをしたとしても、その人はまた同じことを繰り返すか、さらに困難な状況を自ら引き寄せていくでしょう。根本的に自らを振り返って気づくことでのみ、本当に楽になるのであり、そのときその人は大きな飛躍を体験するのです。
それまでにも、実はたくさんのサポートが日々送られていて、高次の導きは決してあなたの苦しい歩みを傍観しているわけではありません。けれど、どれだけサポートが送られていても、自分の気持ちが閉じていたり、受け取る意志が無かったり、あるいは方向性がずれていたりしたら、サポートは受け取れないのです。
そのズレ故に、あなたは「誰も助けてくれない」と感じてしまうのですが、そのズレを自ら認めてもいいのかどうか。頑なになった心でも、どこかで謙虚さをもって自身に向き合うとき、恩寵はあなたの中に流れ始めます。
「謙虚に自分に向き合う」と言葉で言うのはたやすいですが、実際にそれをするのは、しばしば痛みを伴うものです。気持ちはあっても、言行一致でそれができる人はそう多くはありません。
痛みが生じた瞬間、ストーリーの中に逃げ込んで、誰かや何かを批判し始めたり、こんなことをしても意味がない、本当に楽になれるような気がしないなどと疑いの気持ちが湧き上がって来て、さっさと踵を返して自分から遠ざかっていくのです。
自身を含め、様々な方のワークを誘導させていただいて感じるのは、私たちは「私は悪くない。だってあの人がこうだから私がこんな目に遭っているのよ?何で私がこんなに苦しい思いをしなければいけないわけ?」という思いをどこかに持っていて、何とかして「自分こそが当事者」であるというポジションを避けようとしする、ということです。
「あの人」は、親や兄弟、友人、パートナー、上司や部下といった関係の存在ばかりではなく、ときに自身の内なる気持ちやエゴにさえ向けられ、「コイツがいるせいで私は苦しんでいる!消えてなくなれ!」と、激しい憎しみにすらなっていることもあります。
しばしば「自分自身が許せない」という方に出会いますが、自分と敵対している限り、平安はありえないでしょう。
もしそんな気持ちをあなたが持っているのだとしたら、許せないその要素は、エゴや気持ちのカケラ君たちのものなのではなく、まさにあなた自身のものであり、あなたこそが当事者であるということを受け入れられるかどうか、問うてみることです。
「誰のせいにもしたくない」という人ほど、なぜか「自分が悪い、自分が許せない」という傾向があるように感じるのですが、許せないと言っているのは「分離させた自分の一部」であり、あなたはその一部とは違う自分として、「私のせいじゃない。コイツが悪いんだ」と、責任転嫁をしているわけです。
誰かを責めるのも、自分を責めるのも、どちらもお角違いの行為です。何かのせいにするのではなく、ただシンプルに自身の受け止め難い感情や感覚を生きるだけです。
そのとき、人生はとてもシンプルになり、あれほどこじれていた苦しみは融けていくでしょう。