先日、久々に激怒の感情が浮上してきた出来事があり、なかなかわだかまりが取れなかったので、少し時間を取って見ていくことにしました。掘り下げてみると、最近起こった小さな出来事に共通するテーマが見えてきたので、これをシェアしてみます。
先日、母がしたあることによって、私の仕事に差し障りが出たことに私が激怒するという出来事がありました。母は故意にそれをしたのではなく、たまたま知らずにタイミング悪くしてしまったことなので、知っていたらもちろんやらなかっただろうと思うのですが、そのやらかし方が非常に癇に障って、どうにも気持ちの収まりがつきませんでした。
しかも、その出来事の後に私が怒り心頭の様子で母のところに表れたのを見て、母が取った態度は、「分かった分かった!はいはいはい」と、私の言葉をさえぎって強制終了させるというもので、それがさらに私の怒りに火を注ぎました。
その時はそれ以上言わずに収めたのですが、数日経ってもこの怒りは何度もぶり返してきます。
そこで、私は母のどんな要素に反応したのだろうか?と問うてみました。すると、母は私がなぜ怒っているのかを本当には理解しても居ないし、私の気持ちを受け止めても居ないのに、「分かった分かった」と、自分が恐い目に遭いたくないからはぐらかしているのだということろが嫌なのでした。
そもそも、謝罪の言葉の一つもないし、その態度の一から十までが相手への申し訳ないという気持ちからではなく、自分が不愉快な気持ちになりたくないという動機しかないように見えます。
本当に分かりもしないのに、何が分かったというのか!という思いで一杯で、私は到底母を許す気になりませんでした。
実際、仕事自体は差し障りはあったものの、致命的というわけではなくそれなりに済んでいるので、私がそこまで反応しなければ問題という問題は何もないのです。ただ、差し出されたメッセージを私が受け取らなければならないということです。
本当に相手に許しを請うのであれば、相手の気持ちと自分がやってしまったことを、心底受け止めなければなりません。それがない謝罪など、自分の苦しみから逃れたいだけの、自分本位の行為です。
怒りの中で私は、母に対して嫌味の3つや5つも投げつけてやりたい衝動にかられましたが、その行為によって味あわせたかったのは、「私が味わった不愉快な気持ちを受け止めろ!」ということと、「自分のやったことを思い知れ!」ということでした。
復讐というのは、つまりはこの2つを相手に受け止めさせようとする行為なのです。相手がこれらを自らするのなら、復讐といった行為に走る必要性もないでしょう。
ちなみに、怒りというのは「して欲しいことをしてくれなかった」か、「して欲しくないことをされた」かのどちらかによって、傷ついた気持ちが転換して起こります。今回の場合は、その両方の要素が該当していました。
まずは私自身の怒りのエネルギーを心と体である程度受け止めたところで、母の意識の中に私の意識を移動させてみました。意識の移動のテクニックです。
母の意識からこの出来事を捉えてみると、激怒した私に母は「まずい!」と咄嗟に状況に蓋をして収めようとしています。私がなぜ怒っているのかについて深く理解しようともせず、その状況はただ、「自分が何かヤバイことをして、地雷を踏んでしまったようだ」という程度の認識でした。
地雷を踏んだので爆風を避けるがごとく、ただ私の激怒のエネルギーを避けようとしているだけで、私の言うことを受け止めようという意識は微塵も見えませんでした。ただ、心の奥底の方で、自分のやったことを受け止めることへの恐れが見えました。
それを掘り下げてみると、もし受け止めてしまったとしたら、その責任の重さに押し潰されそうになる、落ち込んで動けなくなるといった思いが見えてきました。つまりは、これらを受け止めたくないので、相手の言葉を絶対に聞かず、受け止めようとしないのです。
母の中に見たこれらの押しつぶされそうな重さや落ち込みは、すなわち私の中に在るものです。そして、それから逃げているその姿も、私自身の姿のなのでした。
とは言え、ここまで読み解いてみて、頭では分かるもののまだピンと来ていない自分がいました。受け入れることに抵抗しているのですね。気が付くと、意識がその重いエネルギーから離れてしまうので、ここはしっかり自分にコミットメントして、これまで逃げてきたものに向かいました。
かつて、私は自分のしたことの責任の重さを受け止め切れずに放り出して、逃げてしまったことがあっただろうか?と問うてみると、深いところから「ある」という答えが返ってきました。
私が未だにこうして逃げているからこそ、こうした出来事が起こり、それに反応してしまうのです。
命のエネルギーを送りながら、少しずつ取り組みを続けていきたいと思います。