感情解放のセッションをしているとき、私は常にその人の中の「隠されたもの」を明らかにすることに意識を向けています。その言葉の奥に隠された気持ち、その行動が起こってきた動機がどこにあるのか、常にそのことを頭に置いて問いかけをしているのです。
なぜそうしているかと言えば、真の癒しというものは、真実を生きることにシフトした時に起こるものだからです。様々な嘘や我慢、目をつぶることによって成り立っている平穏は、真の調和ではあり得ず、必ずどこかで破たんします。
それが早いか遅いかという違いだけで、決してそれに関わる人を幸せにすることはありません。
だから、自分だけが我慢すればみんながうまく行くのだという考えは幻想であり、逆にあなたがそのようにすることで、関わる人が本来自分で責任を取らなければならないことに向き合うチャンスを奪ってしまっている、とも言えます。
私たちがなぜ真実を隠すのかと言えば、それによって生じるであろう諸々に耐えられない、と思うからです。
ショックを受けたり、惨めな気持ちになったり、絶望の淵に突き落とされるかもしれない、そうなっては自分は生きていられない。だから、見ないことにしておこう。誰に何と言われようと、自分が生きていくためには必要なことだったんだ、と言い聞かせて、真実をねじ伏せるのです。
けれど、その行為は長く続く新たな苦しみを生みだします。そしてその苦しみは自分だけに留まらず、周囲にも及ぶのです。やがてあなたはそれに耐えられなくなり、その真実に直面しなければならない時が来るでしょう。
私たちには、ちゃんと真実を受け止める力が宿っています。向き合うまでは、それがとてつもなく恐ろしく、この世の終わりになってしまうような気がするかもしれませんが、勇気を出して踏み出せば、必ず調和と癒しに至ることができます。
感情解放のワークでは、しばしばいくつもの人生をまたいで持ち越してきた様々な痛みが浮上してくることがあります。魂が咆哮するかのような深い悲しみや怒り、じくじくと自分の胸を蝕む罪悪感や血が煮えたぎるような恨みなど。
とても重く、手には負えないように思えるかもしれませんが、それらも自分が作り出したものですから、自分でちゃんと治めることができるんですね。
セッションでは、いくつもの問いかけをしながら、はるか昔に自身の手で心の奥に葬ったもの、自分でもそうしたことさえ忘れているようなものの手がかりを探っていきます。
どんなに巧妙に隠したとしても、「隠されたもの」の方では常に表に出てこようとチャンスを窺っていますから、こちらから呼びかければ、必ず何かしらサインを発してくれます。
たとえるなら、山で遭難した人のところに救助に向かっている救助隊の呼びかけのようなものなので、彼らも必死で「私はここに居る!出してくれ!」と叫ばずにはいられないのです。
あなた自身も、本来は彼らをこんな風にしておくのは苦しいことですし、したくはないはずです。けれど、彼らを受け止める勇気がなかったから、そうせざるを得なかったのですね。
セッションは、そこのところの両者の本来の願いを結び付けるのをサポートしているわけです。
「真実を認めてしまったら、自分はどうなってしまうだろうか?」と問うたときの答えが、かつてあなたが受け止められなかったものです。
たとえば、自分がとてつもない卑劣な人間だったとか、最も自分がなりなくなかった醜い、最悪の、惨めで弱い人間だったとしたら、あなたはどんな気持ちになるでしょうか?
自分がなったものを否定したとき、私たちはそのことを認めるまで、何度も何度もその要素を突き付けられることでしょう。
けれど不幸なことに、「なってはならない」と自身に禁じた要素は、自分の意識から隠されてしまうので、なかなか気づくことができません。弱い人間であることを否定した人は、自分の弱さを認識することができなくなってしまうのです。
そのような状態から自身の真実に帰っていく時、そこには恩寵が必ず働いていると私は思うのです。
どんな歩みを通ったとしても、その歩みのすべては、恩寵とともに在ったことに気づく時が必ずやってくるでしょう。
「謙虚であれ」とはよく言われる言葉ですが、真実を求めるときも、この言葉は生きてきます。自身のあらゆる可能性を否定せず、まずじっとハートに問うてみる。それからハートの答えを聞くというこの姿勢が、私たちを真実の扉の前に立たせます。
故に、問いに対して即座に思考で答えてはなりません。私たちの認識しているものは、必ずしも正しいとか限らないからです。思考ではないところでじっと感じながら、自身の深奥と対話していくことです。
あなたの魂がずっと願っていた深い癒しと平穏には、そのようにしてたどり着くでしょう。