セッションなど、多くの方の口から聞かれる共通した言葉がいくつかあります。その一つが、「私なんていない方がいい」「私には居場所がない」といった類の言葉です。それを聞くとき、私はその方の内側で自分自身に疎外されている「傷ついた気持ちのカケラ」が存在していることを知るのです。
自分の存在を否定するような言葉を言ってしまうのは、その方の人生で、繰り返しそのように人から言われたり、そんな思いを味わうような出来事を経験されてきたからでしょう。
けれど、その出来事がなぜその方に起こってきたのか、その理由を読み解くとき、ただ世界から虐げられた「可哀想な被害者」ではない、もっと別の構図が見えてきます。
このことを読み解くベースになるのは、「鏡の法則」です。すなわち、「自分が自身にしているのと同じように、周囲の人も自分に対してしてくる」という法則です。
これに照らしてみれば、あなたの周囲の人があなたに対して「お前なんていらない。邪魔者め!」と罵倒したのだとしたら、あなた自身が同じように自分を罵倒し、邪魔者だと言っているということになります。
にわかには信じられないかも知れません。けれど、日頃の自分の思考を注意深く振り返ってみてください。「こんな自分なんて要らない。いなければいいのに」と思っていることがないでしょうか。
たとえば、理想通りでない容姿の自分や、愛嬌のない自分、不器用な自分、失敗ばかりしている自分、みんなと同じようにできない自分、弱虫の自分などなど。
自身の様々な要素に対して、私たちは自分でも気づかないうちに憎んでさえいたりします。そして決して見ないように背を向け、隔離するのです。
そんな要素が日常に少しでも出てきそうになると、慌てて取り繕ったり、そうではない自分になろうと必死で自分を駆り立てたりします。そんなものが在ることが知られたら、愛されなくなってしまう、自分の居場所がなくなってしまうと思っているからです。
実際に、今あなたがいる環境がまさにそのようなところなのだとしたら、それはまさに、あなた自身の内側を映した鏡です。
世の中に無数にある様々な環境の中で、なぜあなたは今、そこにいるのでしょう?それは、たまたまそこだったのではなく、完全なる必然性によって、その場所に引き寄せられてきているのです。
もっと寛容で愛に満ち、在りのままの自分を受け入れてくれる人たちの中に居られる可能性もあるはずです。それを望みながらもそうではないのだとしたら、自身の在り方を今一度、振り返って方向転換することが必要です。
自分が自身に対してどんな態度を取っているのかを知るには、周囲の人の立場、目線に入って見て、そこから自分の姿を見てみるとよくわかります。
能力のないヤツは要らない、使えるか使えないかでしか相手を評価していないとか、自分たちの基準に当てはまらない人を汚いもののように扱ったり無視したりするとか、ひどく憎んでさえいて、当たり散らすなど。
イメージワークで相手の意識から自分を見たときに感じたものは、すべて、相手のことではなく自分自身のことです。あなたが自分の中で拒絶している、自分自身の側面なのです。
拒絶しているものを見ることは、なかなかにキツいことではあるでしょう。けれど、しっかりと見て、気づきの中に留まることです。それが自分に対する責任であり、誠実さであり、愛でもあると私は思います。
不誠実さの上に、愛はあり得ないからです。
自分自身の真実を受け入れて初めて、自身の在り方が分かります。それを否定したまま、いかに「そうならないようにしよう」と気を付けても、必ず、ならないようにしたはずのものになってしまうでしょう。
真実に向き合うのはキツイかもしれませんが、それは自身の嘘や歪みを浄化するが故の苦しさでもあります。不調和に凝り固まった在り様を調和したものに移行させていく時、その凝りを剥がしていかなければならないからです。
ちょうど、固くなった筋肉を伸ばしていくときのようなものです。
私たちはしばしばこの苦しさが嫌で、頭で「そうならないようにしよう」と気を付けることで真実に向き合い、根本的に方向転換することを避けて通ろうとします。
けれど、いくらそれをしても、また同じことを繰り返すでしょう。
表面的に、同じ出来事が起こらないように注意するのと、出来事が差し出している根本的なメッセージを受け取って応えることとは、全く意味合いが違うのです。
ワークを実践される方は、この違いをぜひ心に留めておいてください。
なぜワークをするのか。病気を治したいから、人間関係を良くしたいから、夢を実現させたいからなどなど、きっかけは何であってもいいのです。けれど、どうぞそれら自体を目的にはしないでください。
それらを通して体験するもの、気づくこと、変わっていくことこそが、人生の差し出しているメッセージです。手段と目的を取り違えないように。
ここを押さえているかどうかで、人生の意味合いが全く違ってくるでしょう。