個人的に、それまで隠れていた感情のエネルギーが浮上させられては解放していくという流れが今月も続いています。うっかり感情に飲み込まれてしまうと、ものごとを深刻に捉えて我を見失ってしまいそうですが、浮上している感情にフォーカスするという基本を心に留めておくと、大切な視点を見失わずに済みます。
9月から始めた新しいある勉強が私にとってはとても難解で、一歩進んでは分からない~~~!と思考停止で固まっています。そんな時は本当に心細さと孤独感に苛まれます。
この感情は、私にはお馴染みのもののようで、これまでこれを強烈に抑圧しながら生きてきました。孤独なのは当然だし、だから何?くらいの勢いで、その奥に隠した心細さやパニックのような混乱した感情については頑丈な封印で隔離していたのです。
その封印がようやく緩み、隠されていた感情が出てくるようになったのは実に喜ばしいことです。まぁ、実際感じているときはしんどいのは確かですが、解放された分、どんどん存在のバイブレーションがクリアになっていくのを肌で感じるので、これでいいのだと分かるのです。
私たちは何か苦しいことが起こると、すぐに「何かが間違っている」と考えます。けれどもし、出来事も自身の内で起こっている感情も、何も悪くないのだとしたら、どうでしょうか。
今自分にできる最善を尽くしてもなお、苦しい時はあるでしょう。そんな時、ただその苦しみを在るがままに生きればいいのだと気づいて、ふっと心の緊張が弛んだ瞬間がありました。
その時に思い浮かんでいたのは、消えてしまった以前のブログで何度かご紹介したことのある、アジャシャンティのこの動画でした。
どんなにひどいことが起こっているように思えても、何も悪くはないのだという視点から、起こっていることにできる限り抵抗をやめ、ただ起こっていることを注意深く体験してみようと思いました。その瞬間から、私はストーリーに巻き込まれている視点から、「観察意識」にポジションを移すことができました。
完全にプレゼンスというわけではなかったと思いますが、少なくともマインドのジャッジメントが外れたのに近い状態になったのでしょう。固く抑圧していた感情のフタが弛んで、その奥から自分でも理解できない涙と感情が溢れて来ました。
それをラベル付けをすることなく、しばらくただただその感情を味わい、涙を流していくと、その時起こっていた強い頭痛や吐き気が少しずつ収まって行きました。うまく出してあげられなかったエネルギーが、そのような形で身体に表れていたのですね。
何か辛いことが起こった時に、きっとこれには何か意味があるのだと考えて、気持ちを切り替えようとする人は多いと思います。それも大切なことだと思いますが、もっと大切なのは、考え方を変えることではなく、実際にそれを体験するスタンスを変えることです。
強いストレスを感じる出来事に、私たちは無意識の反応としてぐっと心身に力を入れて固くなってしまうことが多いものです。これが抵抗になるわけですが、こうすると出来事はこの心身の中に留まって、流れていくことができなくなってしまいます。たとえるなら、川の流れをせき止めるようなものです。
抵抗せず、自分を開いて通過させれば、ものごとは後腐れなく去って行きます。
とは言え、ものごとに抵抗しないということは、為すべきことをしないで傍観しているということと同義ではありません。ここで言う「為すべきこと」というのは、痛みへの無意識の反応から起こる行動ではないというところがポイントです。
ものごとに抵抗しつつ「無意識の反応」をするのではなく、出来事に自分を開いて「意識的な応答」をするという違いです。
その意識的な応答が、ただじっと自身の内面に起こる痛みを受け止めるということになるかもしれませんし、実際的に何か行動を起こすということもあるでしょう。いずれにせよ、この瞬間に差し出されたメッセージに「応答」するのです。
強いストレスがかかった時に意識的であることは、ある程度の訓練が必要なように思います。瞬間的に巻き起こる感情や感覚に気づき、飲み込まれずにいるポジションを取るのは、無意識では不可能だからです。
私たちの多くは普段、意識はほとんどが外を向いていて、内側に向けられることは稀です。故に、自身の内面で起こる感情や感覚には気づいているようでいてほぼ無意識であり、このことが感情に飲み込まれたり、抑圧して思考を走らせたりしてしまう大きな要因になっています。
意識を内側に向ける習慣のない人がそれをするのは、自覚している以上にエネルギーが要るものです。日々少しずつ実践を積み重ね、心の筋肉を鍛えていくといいでしょう。
日々起こる出来事は、全てが成長のチャンスです。辛い時ほど、基本を実践していきましょう。