感情は私たちにとても身近なものでありながら、実際のところそれをダイレクトに感じることに対してブロックを持っていることが多いものです。心地よい感情ばかりではありませんから、あまりにも辛い気持ちが湧き起こってきたとき、どうにかしてその辛さから自分を守ろうとするのです。その一つの方法が抑圧です。
人生をある程度生きてきた人で、感情を全く抑圧していない人はほとんどいないでしょう。私たちは人生を歩み始めて早い段階で、多かれ少なかれ感情を在るがままに表現することは、あまり歓迎されないのだということを学びます。
怒りや悲しみを表現した時、誰かにひどく叱られたとかからかわれた、あるいは大切な人が悲しんだなどの体験をすると、それは表現してはいけなかったのだと、ある種のショックとともに、以後自分にその表現を禁じるようになります。
特に怒りを禁じている人は多く、社会的、道徳的、宗教的にも「怒ることは良くないことだ、いつも穏やかでありなさい」などと教えられるので、それを表現することは悪いことなのではないかと思ってしまうのです。
けれど、「怒りの本質」や「怒りが笑いに変わるとき」の記事にも書きましたが、怒りという感情自体が悪というわけではないのです。それはただ善悪のないエネルギーであり、私たちがそれをある一定の価値観によってジャッジメントし、「良くないものだ」とラベルを貼っているだけです。
ただ、怒りはあまりにも凶暴なエネルギーであるために責任を持った表現をしないと、他者や自分を傷つけてしまいます。その対処方法を知らないが故に、誰かを傷つけないよう、抑圧するしかなかったのでしょう。
けれど、怒りもそうですが、あらゆる感情のエネルギーは抑圧しても、バイブレーションとしてあなたから発信されています。
明らかに怒っているのに顔だけ笑っていても、周囲の人はあなたの心のそこに在る怒りをピリピリとした雰囲気などとして感じ取るでしょう。また、悲しいのに笑顔で「大丈夫よ」と言っても、元気のなさや空元気は、見る人が見ればすぐに分かります。
自分の中に在る感情を否定することは、自分にも周囲にも嘘をつくことです。
どれだけ怒りや憎しみを隠したとしても、その波動は明らかに相手に向かって突き刺さっています。これでは宗教的な教えや道徳的な教えを守っていることにはなりません。そこを取り違えている人は、とても多いです。
ではどうすればいいのかと言えば、自分自身の感情に対して、責任を持った表現をすることだろうと思います。
「責任を持った方法の表現」とは、少なくとも自分の感情の痛みを誰かに押し付けないことです。八つ当たりや意地悪、虐待もこれに当たります。
私が師と仰ぐレナード・ジェイコブソンは、よくセミナーで怒りの瞑想をやりますが、これも一つの方法です。
また、私はセッションの中でよくイメージワークを誘導します。自分の中に在る痛みの感情を在る程度受け止めた上で、イメージの中で相手を呼んで来て言ってやりたい言葉を吐き出し、本当はどうしてほしかったのか、ニーズを表現します。
これは怒りだけではなく、あらゆる抑圧された感情を解放するのに有効ですが、本当のニーズを表現するというのは、とても深い癒しになります。
抑圧を解くには、まず自分が自身の感情を認めなければなりません。私は確かに怒っている。悲しんでいる、憎んでいる。苦しんでいる。などといった真実に気づき、認めることが最初のステップです。
抑圧をしている人は、まず自身の真実の感情に気づきません。自分で無意識に隠し、無いことにしてしまっているので、気づけなくなっているのです。
怒っている、憎んでいるといった「醜い自分」を認めてしまったら、愛されなくなってしまう。大切な人が去ってしまうなどと言う恐れを持っていたりするとき、もし自身の怒りや憎しみなどを認めてしまったら、それは即、孤独の苦しみにつながります。だから、絶対に認めることは避けたいわけです。
これ故に、自身の真実の感情を認めることは、とても勇気が要ります。認めるには、避けたいと思っている孤独などの痛みを受け入れる必要があります。これができれば、あなたはあるがままの自分を表現できるようになります。もうその痛みを恐れてはいないので、避ける必要もないからです。こうして自分の本来のパワーを取り戻して行きます。
感情を抑圧しているということは、必ずそこには「避けたい痛み」があります。解放するには、これをピンポイントで探り当て、受け止めていくことがカギになります。そうでないと、心理的な構造自体が残ってしまうので、一時的にすっきりしたように思えても、また抑圧を繰り返すことになってしまうのです。
根本的に感情を抑圧してしまうパターンを変えていこうとするなら、このことはとても重要な指針になりますので、心のどこかに留めておくと良いでしょう。