抑圧された感情のエネルギーは、同じ質の感情を感じさせる出来事を引き寄せてくるという法則があります。出来事は、僕たちを受け止めて!という抑圧された気持ちからの呼びかけなのですが、それをスルーしてしまうと、出来事は深刻さを増してより大きくなります。だから小さなお知らせの内に、しっかり対処するのが良いのです。
昨日は一日オフだったので、以前から作ろうと思っていた感情解放ワークの実践手順をまとめたレポートを書いていました。(来月初旬には配布できるように準備していますので、楽しみになさっていてくださいね!)
ところが、あと少しで上がり!という直前で突然カーソルが動かなくなりました。何をしても動かないので、仕方なく再起動。
自動バックアップもちょくちょく動いていたから、まさか全部は飛ぶまいと思っていましたが、前日に書いた分は残っていたものの、今朝から書き始めた部分はすべて飛んでいました。
「なんで~~~!???」と、今月初旬のブログ消失の悪夢を彷彿とさせ、ショックで胸とみぞおちの辺りがキュ~ンと痛くなりました。
私の今日の作業は一体何だったんだろう…?
冷静に見れば、たかだか3時間程度、レポートにして10枚程度の記事が消えただけですが、私にとってその衝撃はそれに見合わないくらい大きなものでした。
一瞬、「これは何かの呪い?天罰だろうか?」などと被害者意識がムクムクと持ち上がってきましたが、出来事の意味を決めるのは私自身です。出来事自体には何の意味もなく、ただそれが起こったというだけ。ならば私はこの出来事をどう創造するのか?と踏みとどまり、気づきと解放、さらなるシフトのチャンスとする、と決めました。
些細な出来事に見合わないほどの感情が噴き出すことが、私たちにはしばしばあります。なぜそれが起こるのかと言えば、私たちの内に抑圧された膨大な感情のエネルギーが、その出来事によってトリガーされる(引き金を引かれる)からです。
周囲の人を見て、「どうしてこの程度の些細なことに、あの人はこんなにも反応するのだろう?」と思ったことはありませんか?それは、そういうことなのですね。
抑圧された感情のチャージがそれほど多くない人は、同じ出来事を体験しても大して反応はしません。けれど、感情のチャージの大きい人は、ちょっとしたことでも傷口に塩を塗られた如くに、激痛を感じてしまうのです。
私にとってこの日の出来事は、これまで体験した「喪失の痛み」を実に的確に、ピンポイントでトリガーしてくれたようです。あまりに胸とみぞおちが痛かったので、しばらくうずくまって動けなくなるほどでした。心も痛いですが、身体もこんな風に苦しむんですね。(^^;
振り返ってみれば私はブログ消失事件の時、不安と焦りで一杯で、「喪失の痛み」をほとんど感じられていませんでした。それを感じてしまったら、ブログを復旧させることができなくなってしまう、と無意識にも抑圧したのでしょう。
だから、今になって「ちゃんと受け止めてね」と抑圧された痛みが、こんな出来事を引き寄せてきたのかもしれません。
そんなことを思ったら、ふと、前日の夜、私は未だ自分の内に眠っている心の痛みをさらにクリアにすべく、しっかりと向き合っていこうとコミットメントしたのだった、ということを思い出しました。
そう決めたのは、今の私の状況であまりにも噴き上がっている感情がありすぎて、行動は進まないのに気持ちばかりが焦るという空回りをしていたからです。ここはしっかりと、肚を据えて取り掛かろうと肚を決めました。
そう決めると、ちゃんと出来事がやって来るんですよね。。。
噴き上がってきた感情はかなり痛かったですが、実害は一日で取り返せるくらいのものでしたので、この程度で済んで良かったのです。
とは言え、すぐには立ち直れなかったので、少し時間を取ってワークをしました。
じっと感じていると、それは間違いなく3時間程度の作業を失ったショックではなく、魂の奥深くに仕舞われていたありとあらゆる「喪失の痛み」でした。
過去世で幼い息子と生き別れた痛み、戦乱ですべてを失った痛み、自身の失敗でとんでもない損害を被った痛みなどなど。胸に突き刺さり、肚に響き渡り、背骨を裂かれるがごとくの痛みでした。
日常生活でここまでのものが浮上させられることはあまりないので、良い機会になったと素直に思えます。こんなものを抱えながら生きていると、ちょっとした出来事でもこのエネルギーがトリガーされて、自覚は無くても日常の行動に影響を与えます。根本から影響を与えるものを絶つのが一番です。
この程度の出来事で済んで、そしてゆっくり受け止められる状況でワークできて本当に良かった。
まだ残っているものはありますが、解放が進むほどにハートチャクラの感覚がまた一段とす~っと通る感じがしています。また一つ、確実にクリアになった自分を感じられた一日でした。