怒りはとても凶暴な感情です。不用意に表現すれば、相手を傷つけたり、人との関係性を悪くして自分も辛くなってしまったりします。だから、極力私たちは怒りを隠そうとします。けれど怒りを表現することは、とても大切なことです。今日はその辺りを書いてみます。
怒りを抑圧してしまうと、そのエネルギーが自分に向かい、うつ状態になってしまうことがあると怒りの本質で書きました。健全ではないやり方なんですね。
けれど、ただ怒りに任せて八つ当たりをしたり嫌味を言ったりすればいいというわけではありません。当然そんなことをすれば、相手はあなたに負の感情を抱くでしょうし、仕返しされるかもしれません。
では、スポーツや趣味などで「発散」すればいいののかというと、それも一時的には確かにすっきりしますが、在るがままの感情を表現していないので、また繰り返してしまう可能性が大です。
根本的に解放するには、この在るがままの感情を生きることがポイントです。
つまり、怒りを怒りとして、悲しみなら悲しみとして生きるのです。その理由を、私はこんな3つのたとえ話でお伝えしています。
あなたの10人の友達がこんな風に言ってきました。
「○○ちゃん、あなたはとても醜いし私たちの価値観に合わないから仲間には入れてあげない。あっちへ行って!」
こんなことを言われたら、とても傷つきますよね。
2つ目のケースはこうです。
「○○ちゃん、あなたを仲間に入れてあげるわ。でも、そのままじゃあなたは私たちの価値観に合わないから、××ちゃんって呼ぶわね。あなたは××ちゃんとして振る舞ってちょうだい」
あなたは仮面をかぶらなければ、彼らの仲間に入れてもらえないのです。これも悲しいですよね。
3つ目のケースはこうです。
「○○ちゃん、あなたはそのままのあなたでとっても素敵よ。在りのままのあなたと仲良くしたいの。どうぞよろしくね」
こんな風に言われたら、幸せを感じますよね。
このたとえ話を出したのは、私たちは自身の感情に対して、上記の3つのパターンのどれかの対応をしているからです。抑圧は、1番目か2番目です。
つまり、怒りは危険で醜いから自分ではないものとして扱うか、怒りを別のものにすり替えてしまうかなのです。
ありのままの自分を認めてもらえない苦しみは、あなたもよくご存じのことと思います。それを自身の気持ちのカケラに対してしているわけです。
そうすると、内なる気持ちのカケラは存在を否定されたことをとても悲しんで、「ボクたちなんて、いない方が良いんだ。見捨てられた。誰も助けてくれない。悲しい。悔しい。虚しい」と感じます。このカケラたちの思いが、あなたの日々の気分に滲み出して、気が付くとあなたはいつもそんな気分になっているのです。
だから、まずは怒りを怒りとしてその存在を在りのままに認めてあげる必要があります。
怒りの抑圧が強い人は、自分が怒っていることに気づきません。その人にとって自身の中に怒りを見つけるのは、適切に対処する術を知らないからとても恐ろしく、不都合なことのです。けれど、術を知ったなら怒りを抑圧する必要はありません。
ではどうするのが良いのでしょうか。
基本的に、誰かに怒りをぶつけるのはNGです。
一人で、誰にも邪魔されない時間と空間を確保し、思い切り叫んだり地団太を踏んだり、イメージワークで相手をボコボコにしたりします。ものに当たるのもなくはないですが、自分で責任を取れる範囲にしてください。
レナード・ジェイコブソンのセミナーに行くと必ずするのが「怒りの瞑想」で、プレゼンスの状態(今この瞬間にいること)から、怒りを爆発的に表現します。みんなものすごい勢いで「バカヤロ~~~!!!」などと叫ぶのですが、結構好きな方は多いですね。普段はそんな風に叫べませんから。
イメージワークも、実際にはとてもできないようなことが遠慮なくどんどんできます。怒りが晴れるようなやり方をクリエイティブに見つけてみましょう。レナードは、「怒りが完全に表現されるツボがある。それを見つけなさい」と言います。ピンポイントのツボがあるのですね。
怒りは完全に解放されると笑いに変わります。あれほど深刻だった怒りが、すっきりと跡形もなく消え去ります。感情を信じ込まないこと、という言葉の真意がここにあります。
笑いに変わらない内は、まだあなたは怒りのツボを突いていないのです。自身の怒りがまさにそれだ!という表現を見つけましょう。
怒りを表現すると、相手にその念が飛んで行ってしまわないかと心配される方もありますが、気になる方は、「これは自身の感情に責任を持つためのワークです」と宣言をし、自分の周辺にバリアを張るようなイメージで結界を作ってからされるといいでしょう。
結局、抑圧をしてもその念は相手にしっかり飛んでいるのですから、きちんと責任を持った方法でワークした方が健全だろうと思います。
以上、怒りの解放の仕方を書いてみましたが、また別のアプローチもあります。それはまた別の機会に。